子どもブログ

京都で教育を学ぶ大学生が子どもや教育に関することを中心に書きます

保育とは何か? 私は「教育」のプロではなく「子ども」スペシャリストになりたい

前記事に続いてこの記事でも私の基本的な子ども観について書いていきます。
 
よく「あなたは『教育』に興味ある人なんだね」と言われますが、自分としてはそれは合ってるけどどこか正確でなく、「『子ども』に興味あります。」と答えています。
 
そう答える理由は、「教育」という営みが「子ども・人が生きる」という営みのある側面でしかないと考えているからです。
 
前記事にも言及した通り、自分の大切にしていることとして「子ども達にきらぽか感を感じてもらうこと」があるのですが、教育はきらきら感を表しているものと考えます。
 
「そもそも教育とは何か?」(これについてはまた詳しくは別記事で書きます。)を考えてみます。
辞書によると「ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること」(大辞泉)とあります。
また我が国の教育基本法第一条(教育の目的)には「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあり、
教育とは被教育者(子ども)が「なるべき姿になる」ことを目指しており、「『今』を未来の成長のため」に使い、絶えず「『今』とは違う、『今』より良いを求めること」であり、「『行為』の変化」を求めることだと言えます。
この
教育
―なるべき姿になる
―『今』を『未来』の成長のため
―『今』とは違う、『今』より良いを求めること
―『行為』の変化
―(きらきら感)
に対応させてもう一つの側面を考えてみると、
養護
―あるがままである
―『今』を生きる
―『今』を受け入れ、楽しみ、安心する
―『存在』の受容
―(ぽかぽか感)
が考えられます。
 
その点で、私は教育と養護の両側面を持つ「保育」に魅力を感じています。教育と養護は社会制度で言うと教育と福祉と考えてもいいかもしれません。
保育所保育指針(学校教育でいう学習指導要領にあたるもの)で、保育の目的について「子どもが現在を最も良く生き、望ましい未来をつくり出す力の基礎を培うため」とあり、未来志向だけでなく現在にも目が向けられていることはとても示唆的であると思います。
 
個人的な想いとして、子どもの生について教育の側面にばかり目がいっている気がします。
この教育と養護(福祉)の両側面は乳幼児期だけでなく児童期・思春期・青年期、さらには成人したあともずっと大切な考え方だと思います。
昨今、教育問題とされている、いじめ・不登校の問題も教育的な面だけでなく養護的な面でも考えてみるとまた違った見え方があると思います。
 
その点で、園や学校の役割として、「子どもが成長する場としての園・学校」だけでなく、「子どものあるがままを受け入れる場・居場所としての園・学校」の面も必要だと思います。
 
またこの教育と養護(きらきら感とぽかぽか感)の関係は相補的(例:ぽかぽか⇒テストがだめだったときに家族にありのままを受け入れてもらえることで元気が出る。きらきら⇒逆にありのままを受け入れてくれていた恋人にふられたが仕事がんばって自信がもてる)なのですが、
発達的な考えだと生まれてから最初は必ず養護(ぽかぽか)だと決まっています。前記事でも紹介したエリクソンの「基本的信頼」のように、自分のあるがままが受け入れられることで初めて今と違う自分を目指すことができるとされています。
なので、子どもに「勉強しなさい」と成長を求める前に、あるがままの存在を受容して応援してほしいと思います。
 
<参考>
山竹伸二『子育ての哲学』ちくま新書、2014年
矢野智司『自己変容という物語―生成・贈与・教育』金子書房、2000年