子どもブログ

京都で教育を学ぶ大学生が子どもや教育に関することを中心に書きます

教育はだれのためのものか? 「子どものため」か「国のため」か

教育の目的について。
 
教育の目的とは何か?教育はだれのためのもの?
と、聞かれると「子どものため」だと多くの人が答えると思います。
 
教育の目的について、教育という社会機能の起源を考えると「種の保存」があげられます。
狩猟採集の時代には、無力の状態で生まれてくる子どもを守り、一人で狩猟採集ができるように技術を伝達することが種の保存につながっていました。そのことが「社会・共同体の維持・発展」につながります。
さらにその「教育」によって人それぞれが長く、良く生きることができ、「個人の幸せ」にもつながっていました。
 
近代ではどうでしょうか?
近代学校(貴族だけ、宗教者だけ、エリートだけでなく、すべての子どもが通う学校)の成立の理由、目的は産業革命によって必要となった工業労働者の育成や戦争ための強く規律的な兵士の育成であると言えます。つまり「社会・共同体の維持・発展」です。
捉え方によりますが、ある人はこの教育によって今まで就けなかった仕事に就くことができた(=「個人の幸せ」)かもしれませんが、イギリスの産業革命時の労働問題や戦死などに象徴されるようにその教育によって不幸になった人もいるはずです。
 
現代でもこの教育とは「社会・共同体の維持・発展(国のため)」のためか、「個人の幸せ(子どものため)」のためかという問いには様々な議論があります。
もちろん両方で、「個人が幸せ」なら「それは社会・共同体としても望ましい」し、「共同体が発展している」と「個人も幸せ」である、と。
 
ただどちらかに重きが置いてあることが多いですが、教育をめぐる議論いわゆる教育問題はこの視点がごちゃまぜになっていると感じます。
 
例えば
最近ではグローバル教育とICT教育が盛んですが、それはなんのためか。
「個人の幸せ」観点だと、「これからの時代、英語ができること、ICTのリテラシーがあることが幸せにつながる」という見方、
「社会・共同体の維持・発展」観点だと、「日本ではグローバル人材、ICT人材が足りていない。日本の国際競争力の維持、強化には必要だ」という見方があります。
 
以前、ブログでも書いた通り、私は両方が大切だと踏まえた上で「個人の幸せ」に少し重きを置いています。
そういう私から見ると昨今の教育議論が「社会・共同体の維持・発展」に偏りすぎていないのか心配です。
グローバル教育、ICT教育はまだしも、リーダーシップやイノベーターの養成も公教育が担うべきだという論調もありますが、すべての子どもに必要かは疑問です。
「教育開発可能性を広げること」が善とされている(つまり子どもの選択肢を広げるためにやれることは全部やっとけ)昨今ですが、例えばグローバル人材になる可能性を担保するために、グローバル人材になる可能性よりも日常で必要になる可能性がはるかに高い読み書き計算がなおざりになるのは大変危険だと思います。
 
さらに子どもを持つ多くの保護者は子どもの「個人の幸せ」に重きを置いていて、民意とトップ層がずれていってしまっている印象です。
確かに自分の子どもがグローバル人材、イノベーターになってくれるなら嬉しいと思いますが、その前に最低限の人格と知性をもって、幸せに暮らしてほしいと願っている人が多数だと思います。
 
教育の議論をする際にはこの観点を押さえることも時には必要だと思います。