「なんのために生まれてきたのか」に対する答え
自分は何のために生まれてきたのか。
昔から多くの人が向かい合ってきた問い。
その答えの拠り所として宗教があった。
しかしダーウィニズム等の科学によって、その神話が揺さぶられる。
「何のために生まれてきたのか」という問いに対して、
「生まれてきたことに意味はない」というニヒリズム。
サルトルの有名な言葉「実存は本質に先立つ」。
「何かのために生まれてきた」のではなく、「生まれたから何かのために生きるんだ」というニヒリズムの克服への決意。
人間は自ら、「自分はなんのために生きるのか」(=本質)を創造していくことができる、能動的・主体的・投企的な存在である。
しかし、ここで「生まれた」という事実に立ち返ると、「生まれる」とは自ら選んだわけはない、自分ではない「誰か」が主体である、絶対的に受動的な営為だということに気づく。
さらに人間は「生理的早産」(ポルトマン)を特徴とし、無力な状態で生まれ、周りからの手助けを必要とする。
ここに自分が存在するという事実には必ず「誰か」(=親、他の保護者・保育者・教育者)の存在があったことがわかる。
加えて、その「誰か」も能動的・主体的・投企的な存在であるはずだが、
彼・彼女は、関わらないという選択肢もある中で、あえて「生む」「育てる」という選択・決断をし、自分を育ててきた。
これは歴史から自分だけでなく、多くの人々が「生み」「育て」、それにより多くの人々が「生まれ」「育てられて」きたことがわかる。
ここに合理性はなく、「生む」「育てる」ことを選ぶということはある意味で「非合理な決断」であるが、多くの人々は選んできた。
これこそが人間の本性と言えるのではないか。
教育人間学者ランゲフェルトは、「人間は教育されねばならぬ動物である」というテーゼを述べる。
このテーゼは文字通り、「無力であるがゆえに周りからの助け・教育(=おとなとのかかわり)を必要とする」子どもの本質を表すテーゼであるとともに、
「教育を必要とする子どもの存在に出会い、あえて教育するという決断をする」おとなの本質を表すテーゼでもある。
人はなんのために生まれるのか。
その問いに対する答えは「ない。自ら創り出していくものだ」。
ただ、一つ言うとするならば「子ども(次の世代)を愛し、育てること」かもしれない。