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子どもブログ

京都で教育を学ぶ大学生が子どもや教育に関することを中心に書きます

「なんのために生まれてきたのか」に対する答え

自分は何のために生まれてきたのか。

昔から多くの人が向かい合ってきた問い。

 

その答えの拠り所として宗教があった。

しかしダーウィニズム等の科学によって、その神話が揺さぶられる。

大きな物語」が終わり、ニーチェは「神は死んだ」と言った。

 

「何のために生まれてきたのか」という問いに対して、

「生まれてきたことに意味はない」というニヒリズム

 

そのニヒリズムにポジティブな意味をつけたのが、実存主義

サルトルの有名な言葉「実存は本質に先立つ」。

 

「何かのために生まれてきた」のではなく、「生まれたから何かのために生きるんだ」というニヒリズムの克服への決意。

 

人間は自ら、「自分はなんのために生きるのか」(=本質)を創造していくことができる、能動的・主体的・投企的な存在である。

 

しかし、ここで「生まれた」という事実に立ち返ると、「生まれる」とは自ら選んだわけはない、自分ではない「誰か」が主体である、絶対的に受動的な営為だということに気づく。

さらに人間は「生理的早産」(ポルトマン)を特徴とし、無力な状態で生まれ、周りからの手助けを必要とする。

 

ここに自分が存在するという事実には必ず「誰か」(=親、他の保護者・保育者・教育者)の存在があったことがわかる。

 

加えて、その「誰か」も能動的・主体的・投企的な存在であるはずだが、

彼・彼女は、関わらないという選択肢もある中で、あえて「生む」「育てる」という選択・決断をし、自分を育ててきた。

 

これは歴史から自分だけでなく、多くの人々が「生み」「育て」、それにより多くの人々が「生まれ」「育てられて」きたことがわかる。

 

ここに合理性はなく、「生む」「育てる」ことを選ぶということはある意味で「非合理な決断」であるが、多くの人々は選んできた。

これこそが人間の本性と言えるのではないか。

 

教育人間学者ランゲフェルトは、「人間は教育されねばならぬ動物である」というテーゼを述べる。

このテーゼは文字通り、「無力であるがゆえに周りからの助け・教育(=おとなとのかかわり)を必要とする」子どもの本質を表すテーゼであるとともに、

「教育を必要とする子どもの存在に出会い、あえて教育するという決断をする」おとなの本質を表すテーゼでもある。

 

人はなんのために生まれるのか。

その問いに対する答えは「ない。自ら創り出していくものだ」。

ただ、一つ言うとするならば「子ども(次の世代)を愛し、育てること」かもしれない。